鳴く虫?!

小6の国語の授業で下のような詩をあつかった。

虫  八木 重吉

虫が鳴いている
いま ないておかなければ
もう駄目だというふうに鳴いている
しぜんと
涙をさそわれる

〔  〕の夜、虫の声を耳にして、それを「いま ないておかなければ・・」とせっぱつまった真剣な命の声と聞く、この深い感じ方が、あたりまえの単純な事実をどれだけ感動的なものにしているか、理解できるでしょう。

この〔  〕の中に季節を入れる問題なのだが、全員が〔夏〕と入れた。“それじゃ、どんな虫が鳴いていると想像したの?”と問いかけると、“せみかなぁ”“カブトムシは鳴かないし”“ハチはブンブンとうるさいんじゃない”“春じゃないの。虫がいっぱいでてくるし”などといいはじめる。

確かに、家の庭にコオロギやスズムシが鳴くような一夜を過ごした経験を持つ子は少ないのかもしれない。ほとんどの子供がマンション暮らしだ。「秋のムシ」の情緒を理解しろ、といっても、ムシの声など聞いたこともないのでは言うだけむだなのかもしれない。空調設備の整った外部と手段された住居空間では、テレビの音以外に聞こえてくるものはない。

しかも、この詩で、虫の声を「せみの鳴き声」としたとき、作者の「しぜんと涙をさそわれる」気持ちにどうつなげていくのだろうか。それも、秋の虫のあの少し悲しげな鳴き声を知らないとわかるものではない。とにかく今の子供たちにとっては、「鳴く虫」=「せみ」という体験しか持ち合わせがないのだ。

今の子供たちは驚くほど季節感を持ち合わせていない。この前は、中3の授業で季語をあつかっていて、「ひな祭り」がいつの行事なのかわからない生徒がいた。“お前の家には女の子はいないの?”“妹がいますけど”とのこと。女の子がいても「ひな祭り」とは縁がない十数年を送ったのだろう。

国語の授業をやっていると、その子が置かれている家庭環境が見えてきてしまう。

秋の一日、十五夜の一夜、ススキとお団子を飾る。そんなお母さんに育てられた子供は、きっと国語の力を持っているはずなんだ。