心の琴線に触れる問題
民主党政権になりいろんなことが変わろうとしている。それにたいして様々な反応があちこちでうまれている。
とくに、外国人参政権や夫婦別姓については、身近な生活レベルでの問題でもあり、あちこちで「やや過激な反応」も散見される。
ここで私の立場を明確にして、賛否を問うつもりはない。私が言いたいのは、こうした「心の琴線に触れる問題」であればあるほど、賛否両者の立場をしっかりと聞く姿勢を持つ必要があるのではないだうか、ということだ。
私は、中・高生にこうしたテーマでの小論文を書かせて指導する立場にある。一方に隔たった立場ではなく、両者の意見をしっかりと知ることこそがまずは大切な仕事となる。
同時に、子供たちに何かを教える立場を離れたとしても、私は、自分自身に、そうした姿勢を持つことをつねに課している。そのスタイルは高校生あたりから一貫して変わらない私の「芯」のようなものだ。
たとえば、スーパーのレジ袋を拒否することは環境保全につながる、といったことでさえ、実は違うんだという見方もあるんだ、と教えてあげること。それこそが私の役目なのではないかと考えている。
外国人参政権や夫婦別姓の問題など、両極端な反応が起こりやすい。だからこそ、その両者の立ち場を丁寧に解きほぐし、提示していくことこそが、私に求められていることだと考えるのだ。
「良心」といって良いのだろうか。両極端な反応が起こる問題になればなるほど、そうした心の動きが大切になってくると思う。
良心とは相手を思いやる心。
賛成の立場の人も、反対の立場の人も、それぞれの思いの中で議論をする。お互いがお互いの拠って立つ場を尊重し、その上での議論であれば良いのだ。そこには「止揚」が生まれる。
今、日本は曲がり角なのだと思う。たからこそ、「良心」のもと、大いなる議論があっていいと思う。そのためには相手の意見を知らねばならない。一方的な批判だけは止めたい。
lekuchan先生も書かれているが、天○人○も「良心」をなくしてしまったかのようだ。とにかくマスコミには「両者の立場を併記した情報提供」をお願いしたい。その上での自らの立場であれば文句はない。
外国人参政権や夫婦別姓の問題は、それを考えるには、現代社会だけでなく、歴史も倫理も民俗学も哲学までの知識を必要とするものだ。だからこそ冷静にしっかりと見つめていきたい。
最後に、これらの問題にあれだけの定見を持っている小○一郎という政治家と、メディアで騒がれる小○一郎のギャップが私には不思議です。
ここまで踏み込んで政治的なことを書いたのは初めてのことでした。明日の朝には消去しているかもしれません