主語を抹殺した男

昨日の「主語を抹殺した男」についての続きです。

川端康成の小説「雪国」の冒頭部分。誰もが知っている「国境の長いトンネルを越えるとそこは雪国だった」は、英訳本では「The train came out of the long tunnel into the snow country.」となっている。

「国境の長いトンネルを・・・」の日本語を読んで私たちの頭に浮かぶ情景は、汽車に乗っている作者を同じ目線で追体験する。暗いトンネルを走る車内、やがて、窓の外が明るくなり、真っ白な銀世界が車外に広がる。そんなふうに時間の推移とともに場面が刻々と変わっていく。それがこの川端の原作のすばらしさだと思う。

それが「The train came out of the ・・・」となると、汽車の中からのアングルではなく、上方から汽車や汽車の中の主人公を含めて見下ろした視点に変わってしまう。いわゆる「神の視点」である。

なぜだろうか。

そう、原文には「主語」がないのだ。原文は、時間の推移も含めた出来事を表しているだけなのに、英語では「Train」という「もの」を主語にしたために、それが空間を単に移動するという表現になってしまっている。もちろん、時間と空間を立体的に表現した原文の方がはるかに良い。

えっ、原文では主語が省略されている、ってまだおっしゃるのですか。

ちがうのです。そもそも「日本語には主語はないのです」

「ない」のに「英文法発想」で、「省略している」と考えることがそもそもおかしいのです。「日本語には主語という発想がない」「日本語には主語はない」「主語無用の言語が日本語なのだ」といった発想からはじめれば良いだけのことです。

うーん、とうならせられませんか?

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