あの事件について

大学2年になった息子は、自分が行きたい研究室を絞り込んでいるようだ。ただ、そこは人気がある研究室らしく、いくつかの授業の成績順で進路が決められるとのこと。いずれにしても、だんだんと大学生らしくなっていく姿をみるのが楽しい。

家に帰ると、娘がいくつかの大学の今年度のパンフを開いて見ていた。「今日ね、学校で未来予想図っていうのを進路の時間に書かされたの」「ふぅーん」「それでね、20代/大学生→卒業、なんて書いていってね、40代の所に“子供が○○高校入学”って書いたんだ」「そうかい」「今は、大学いって生物を勉強しよう、っていう以外に“これは”ってやりたいことないけどね、自分の子供を○○高校に入学させるのは、すっごい明確な目標だね」「(^^)/(苦笑い)」「自分の子供が学校の後輩ってすごいうれしいよね」「そりゃそうだ」

こんな会話が私の帰宅後の何よりの楽しみだ。何が言いたいか・・・ 

あの事件に関するコメントは軽々に書くべきではないと思い止めていた。

あの秋葉原の事件で19歳や21歳の子供を奪われたお父さんの無念な気持ち、そのことを思う。未来、将来、夢、可能性、輝き、親が子供に託するものだ。それを一瞬にして奪われた。それもあまりに理不尽な暴力によって。

他人を想像する力、他人の生活を思い描く力、他人とのつながりを思う力、そんな力を今の学校教育は子供達に授けているのだろうか。この事件が私たちに問いかけているものはあまりに大きいと思う。犯人の心の闇は、ひとりの人間だけに帰すものではなく、社会全体として共有しなければならないと考える。

小学校にたいした効果も期待できない英語教育を導入するのを止め、道徳教育や心の教育を充実すべきなのではないだろうか。道徳教育については賛否両論あると思う。戦前の全体教育への呪縛からまだまだ逃れられていない日本の教育界。でも、そんなイデオロギーの対立をしている場合ではないと思う。

親を思う気持ち、友達を思う気持ち、身近な動植物をいたわる気持ち、目に見えない力を想像する力、自分を大切に思う気持ち・・・・ ほんのちょっとしたことだ。ちょっとしたことの積み重ねだ。そうしたことを子供達に伝えていくことは、私たち大人の責任でもある。

私は今の自分の立場で出来ることをしていきたいと考えている。そうでなければ、子供を奪われたお父さんたちへ顔向けが出来ない。

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