a priori(アプリオリ)

昨日の夜のレクチャーにちょっと刺激を受けてしまい、本棚の奥の方から「存在と無」を取り出してきて夜中にめくっていた。ほぼ30年ぶりだろうか。この本を手に取るのは。あちこちに傍線が引いてあり、コメントが書き込んである。新宿のアパートでひとりこの本を手に取り一日中ぶつぶつと言っていた自分がそこにはあった。あの頃は数日間人と会わないで本と向き合っていても何ともなかった。でも、もう一度「存在と無」は本棚の奥にしまい込む。今は「自分」と本質的に向き合っていられる時ではない。

でも、時間の経過というものはサルトルそのものの評価というか、現代国語での扱いも変えてしまっているように思う。娘の授業のノートを見るかぎり、「実存主義」そのものが問題になっているのではなく、「神と人間」といった切り口での扱いになっている。「個がどうあるべきか」といったサルトルの思想にスポットがあてられるのではなく、サルトルといった人間が歴史の中で果たした役割が問題になっているようだった。

a priori(アプリオリ)といった単語を久しぶりに使った。あの頃の自分と今の自分をつないでいるものは何なのだろう、そんなことを考えるのもやっぱり止めておく。今度、山でも登ったときにひとりテントの中で考える時間を持てるかもしれない。

さて、夏の授業の講師の割り振り表を作成しよう(^^)/

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