臓器移植法案
そもそも「脳死」という考え方は、臓器移植のために考え出されたものだという。脳死状態でも生き続ける人もいるし、子供を産むことさえ可能なのだそうだ。脳死しても心臓が動いている限り、血液は流れ、体温がある。自分の親しい人が「脳死」だと医者に宣言されたとき、それを私は「死」として受け入れられるだろうか。とても素朴な疑問が心の中にわき上がった。
一方で、臓器移植でしか生き延びることが出来ない人たちもたくさんいる。そうした人たちの願いもまた切実なものだろう。とくに、臓器移植でしか治療できない病の子供を持つ親の立場に自分があった場合・・・ どんなことをしてでも、幼い命を救いたいと思うのは親として当然だろう。
それぞれの立場からの意見を知れば知るほど、結論が出せる問題ではない、そんな思いを持ってしまう。だが、世の中の秩序を守るためにも、何らかの結論を出さざる得ないことも確かだ。
そんな中、とても気になる人物がいた。テレビなどでこの問題が流れるたびに、反対派の代表として意見を述べている「小松美彦」という方だ。語り口に特徴があり、自己決定権という観点から反対の意見を述べられていた。
その「小松美彦」という方は、偶然にも家の息子が通う大学の先生で、授業を受けたことがあるという。生命倫理の授業で、とても興味深く、おもしろい授業だったという。講義ノートも見せてもらった。
「新自由主義」「自己決定権」
この方の主張のキーワードはこの二つのようだ。今、何冊かの本を買って読んでいる。その話はいずれ書かせてもらうつもりだ。その中でも「自己決定権は幻想である」という新書がもっともお薦めのようだ。高3生の小論のテーマ教材としても良いかとも思う。
いずれにしても「臓器移植法案」について、もっと広範に議論の輪を広げていくべきだと思う。今の法案がそのまま国会を通過すると、「人の死は脳死」という新しい定義ができ、それが一人歩きしていくような気がする。本当にそれで良いのか、大人として、一人一人が考えるべきことではないかと思う。