国語の難しさ
昨日の現代文小説は江國香織の作品。主人公は男と暮らしていて、その母は祖母と二人暮らし、妹はかつては結婚していたが離婚し、今はつき合っている男性が『出たり入ったり』している状態。いろんないきさつのあと、主人公である「私」は、「私たちの人生に立てておいて欲しい看板」として「It’s not safe or suitable to swinm.」という、かつてアメリカ旅行中に見たモノを思い出す。つまり「遊泳禁止」と言わずに「泳ぐのに安全でも適切でもない」という表現に「人生」を見たように「私」は感じているのだ。自分たちの人生は「安全でも適切でもない」が、そんな人生を生きていくしかない。そんな人生の悲哀というかつらさというか、そんなアンニュイな雰囲気と海辺の光景がコントラストをなす。
私は好きな作品なのだが、娘にはまったく理解できなかったようだ。娘はどちらかというとものごとを真正面からとらえる性格。私のようにひねくれてはいない。もちろん人生の『哀しみ』なんてものは理解ができない。結果、選択肢はすべて「まっすぐに選択」して「わな」にはまったモノばかりを選んで撃沈。
実際のセンター試験にはこんなアンニュイな文章は出題されないだろうが、それでも国語の難しさを実感させられた。自分の生き方と正反対の文章が出題されるとアウトということだ。逆に言えば、いろんな生き方を達観して読み取れるような立場からでなければ正解が得られないともいえる。ひねくれものが高得点を取れる教科なのだ。
一所懸命に「人生の倦怠」や「人の死を前に海辺のまぶしい光の中でタバコをくゆらせる『わたし』の内面」を説明したが、「わかるけど・・・」という状況だった。本当に国語は難しい。
2週間後のセンター試験本番にはどんな文章が出題されるのだろうか。読み手との相性で「泣き笑い」の結果になるのだろうなぁ。