国語という教科について

「うちの子、国語ができないんです。」というお母さんの悩みには私はこう答えるようにしている。「国語って何の国語ですか?」「何のって、学校の国語の成績が良くないんです。」「それならばあまり気にすることはありません。」「どうしてですか?」「それはですね・・・」

学校の国語の授業は「国語」という教科学習ではなく、国語教師の考えを押しつける場になっていることがある。教科書であるテキストを利用して、論理的に思考し発信する言葉のチカラを育む、といった授業ではなく、ひたすらに「平和」やら「環境」やらといったことに対する自分の考えをしゃべっている、なんて授業になっている学校がある。

そうでなくとも、学校の国語の定期試験は、何度も読んで解説をされた文章が出題される。試験対策では、「国語だと思うな、これは社会や理科と同じ“暗記教科”だと思って勉強しろ」と生徒たちに言う。数種類のワークを解かしておけば、たいていの生徒はきちんとした得点を修められる。それでもダメな生徒は、あくまでも国語だと思って試験に向かっているからだ。

こんなんで良いはずがない。国語という授業は、日本語でしっかりと思考できる能力を育む教科なのではないだろうか。ある方が「学校の国語の授業は、そのほとんどが道徳の授業になりさがっている」とおっしゃったが、本当にその通りだと思う。言葉の学習は「型」を身につけることからはじまると考える。英語の学習はまさにそうした「型」の学習に終始する。国語だって同じことではないだろうか。

とくに小中学生の国語の授業は「型」を教え込む授業で良いのではないだろうか。言葉で書かれたり、しゃべられたりしたモノをしっかりと理解できること。そして、自分の考えていることを書いたり、しゃべったりしてきちんと発信できること。そのための「型」をしっかりと身につけさせることこそが大事なのではないか。

そんな意味で、学校の国語の成績が悪くとも、それはその子の「本来の国語のチカラ」と全く関係ない場合が多い。だから「気にすることはあまりない」と答えている。同時に、学校の国語の成績をアップさせるには「オトナの対応」が必要となる。「道徳の授業となりさがっている」のであれば、その先生の意見に合わせて「うける発言」をする必要もある。

「えげつない」と思われてもしかたがない。文章を書く、ということは、大なり小なり「うけねらい」の部分がある。相手に届かなければ、文章を書く意味がない。届くためには「うけねらい」は必ず必要になってくる。

国語という教科を、本来の意味での「論理的な言葉のチカラを育む」というスタイルで授業されている学校の先生を、ここのところあまり見かけていない。