「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録
昨日まで、4泊5日で九州の平戸、上五島の教会群を見て回ってきました。そんな中、今朝のニュースで「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界文化遺産登録にふさわしいという勧告が出たというニュースが届きました。素直に「おめでとう」と言いたいのですが、見てきたわたしの意見としては、大丈夫なのかな? というのが正直な感想です。
世界遺産に登録された構成資産をよく見ると「信仰」がキーワードになっているのがよくわかります。行ってみて良くわかったのですが、どの集落も教会(天主堂)を中心にこぢんまりとまとまっていて、山の中や峠を越えた海沿いにあります。長い間「隠れキリシタン」として信仰を保持するのにも必要なあまり目立たない場所だったのでしょう。
どの場所も大型バスで行けるような所ではありませんし、今でも教会の周辺にはそれを守っている方々が住んでいらっしゃいます。また、外国人の観光客の姿はほとんどなく、英語や中国語、韓国語の案内もまったくありませんでした。はっきりと、外から来る人に慣れていない、というのがよくわかります。世界遺産に登録されて、多くの外国人観光客が訪れるようになったとき、大丈夫だろうか、と思います。
世界遺産に登録されることがゴールでなく、スタートになることを期待します。
頭が島の教会の周りの集落も今は多くの世帯が暮らしていないようでした。すでに信者さんも10世帯を切っているとのこと。今回の世界遺産の構成資産の教会堂ですが、維持することも難しい状況にあると推察します。それが今回の登録によって、後世までしっかりと残されるのであれば意味のあることになるはずです。
また、私たちも、今度の登録をきっかけに、観光地としてではなく、そこに暮らしてきた人たちの信仰と祈りがどのように営まれてきたのか。また、それが歴史の中でどう意味づけられるのか。今を生きる私たちにとって、そうした先人たちの生き様をどうとらえれば良いのか。ひいては、人にてとっての「幸せ」ときなんなのか。そんなことを考えるきっかけとし、様々に関わっていければ、世界遺産に登録された意味がでてくるはずです。
きっと、テレビ、雑誌などは「長崎の教会群の世界遺産登録記念」などと銘打ってあおるのでしょうが、あくまでも「信仰の歴史」が世界遺産に登録されたことを忘れるべきではないと思います。
写真は「頭が島集落のキリシタンの方々の墓地」です。こうした信仰の場所こそが世界遺産登録されたのであって、建築物が登録されたのではないということです。