「美味しんぼ」をめぐる問題を考える
さて、今日発売のスピリッツで3回シリーズの「福嶋の真実」という漫画が終わった。政府のえらい方々が「けしからん」と大声を上げたのはこのシリーズの1回目が発売されたときだ。その時から著者は「3回シリーズなので最後まで読んでから意見を述べて欲しい」と一貫して言っていた。そして、今回の漫画を読んで「なるほどこういうことが言いたかったのだ」と私もある意味で納得できた。実は、今回の最も問題だったところはこのことだと考えている。つまり「ある一部分の表現」を抜き出して、その表現がすべてであるかのように批判をすることだ。
今回の作品への批難は「福嶋に対する風評被害を助長する」といったものだった。最後まで漫画を読めば著者にそんな意図はこれっぽっちもなかったことがわかる。同時に、このシリーズ以前に、著者は福嶋の農産品への風評被害がいかにばかげたことなのか、を漫画で扱っていた。そうしたすべてを考えると、あの政治家の大声での批難が全くお門違いだということがはっきりする。同時に、少数意見、マイノリティの意見、がこうした社会的な大問題のもとでは無視されがちになっていく。そこにスポットをあてて、こうした少数派の人たちもしっかりと社会全体でケアしていきましょう、といった著者の考えがはっきりとした。
学校現場でのいじめの問題と同じで、大きな流れに棹さす少数派や、周りとちょっと違ったことをするものに対して、それを阻害するのではなく、同じ目線になって話を聞いてあげる姿勢。それこそが今の時代に最も欠けていることなのではないだろうか。今回の「美味しんぼ」の問題もそうした意味で学校現場のいじめと根っこのところではつながっていると思う。また、人の意見を最後までしっかれと聞かずに、ある一部分を針小棒大に解釈して批判する風潮も憂慮すべきことだ。何が正しいのか。それはひとりひとりの判断にかかっている。できれば、miyajukuで学ぶ生徒たちには、しっかりと拠って立つ自分を作り上げてもらい、その確固たる自分によって社会の様々な事象の正誤を判断できるようになってもらいたい。
ひとつに偏った意見ではなく、様々な情報に耳を向ける柔軟性を持つこと。そんな大人になっていって欲しいと思っている。そのためには、まずしっかりと学ぶことだ。学ぶことによってはじめて「やわらかな頭」はつくられていく。