大岡 信
皆さんは中学校の教科書で次のような文章を読まれたことはありませんか?
大岡信 「言葉の力」
人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものだはなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。
京都の嵯峨に住む染織家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかで、しかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。「この色は何から取り出したんですか」「桜からです」と志村さんは答えた。
素人の気安さで、私はすぐに桜の色びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際は、これは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいゴツゴツした桜の皮から、この美しいピンクの色がとれるのだという。志村さんは続けてこう教えてくれた。この桜色は、一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな、上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。
私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。春先、もうまもなく花となって咲き出ようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。花びらのピンクは、幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの尖端だけ姿を出したものにすぎなかった。 続く
この話しは、長い間、中学校の国語の教科書に掲載されていたのでご存じの方も多いかと思います。言葉の持っている力をわかりやすく、しかも説得力をもって書いた文章でした。「言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものだはなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまう」という部分は、何度読み返しても迫力を持ってせまってきます。
わたしは学生時代に何度か大岡さんのセミナーに足を運びました。わたしの二十代の感性は、大岡さんの詩によって磨かれた部分が少なからずあります。中でも「春 少女に」という詩集は、何度も読み返した記憶があります。その書き出しの部分を読み返しただけで、今でも「ぞくぞく」としてしまいます。
ごらん 火を腹にためて山が歓喜のうなりをあげ
でも知っておきたまへ 春の齢の頂きにきみを押しあげる力こそ
わたしに「言葉」というものを教えていただいた大岡さん。安らかにねむってください。ただ、その言葉たちは、別の生命をもってここから生きていくのだと思います。
みなさんも、大岡さんの詩にこれを機会にふれてみてはどうでしょう。少なくとも、もう一度、「言葉の力」を読み返して、言葉というものを考え直してみるきっかけにしてはいかがでしょうか。